情報過多の現代、何が正しくて、何が間違っているのか、きちんとジャッジできないと振り回されてしまいます。
自分に劣等感があったり、他の人に強い嫉妬があると、物事を正当に判断することが難しくなるもの。
だから、まずは自分の劣等感を克服することが大切なんですよね。
それができないと、自分が“負けた”と思っている魅力的な人がこき下されるとどこか安心してしまう人もいる。デマ情報でも信じようと思ったり。
安心するどころか、間違った「正しさ」を盾にして自らこき下そうとする人もいる。
そんな情報がネットでは広まっていて、それを鵜呑みにする人もいる。 それでは、世の中が悪い情報で汚されてしまいますよね。
誰もが気軽に世界に向けて言葉を発信する時代になったのはステキなこと。 勇気ある“小さき声”が世界に広がることもあるから。
でも、残念ながら嫉妬から来る自分勝手な“小さき声”まで広がってしまう世の中になってきている。
同じく、嫉妬している人が集まり“大きな声”になってしまうことも。
もっとみんなが自分の力でその情報をジャッジできるようにならないと振り回されてしまいますよね。
◇
劣等感を抱いている人は、そもそも自分をきちんと受け止められていない。 受け止められていないのにその“自分”でいるためには、自分を正当化することが必要となってくる。 だから、素敵な人をこき下して、安心しようとする。
本来は、自分の欠点も含め受け止められるようになったら、だんだんその欠点を克服し、成長していくことが多いし、成長すればするほど自分を好きになっていくから、他の人に嫉妬なんてする必要はなくなるもの。
むしろ魅力的な人がいたら、マネをして、もっと自分の魅力に役立てようと思えるもの。
それができない場合は、そもそも自分自身の問題を克服できていないことに気付かなくてはいけない。人のことばかりかまっていないで、まずは自分の向き合うべき!
そうでなければ、自分も自分と関わる人も幸せにはなれないから。
◇
ただ、それだけではなく、最近は表現の世界がかなり不自由になってきているような気がします。 それが考えすぎや被害妄想からの非難の声だったとしても、その一部の人の意見が優先されてしまうようなところもあるかも。
だからこそ、必要以上に「これは差別だ」という批判も増えてきたように思います。
例えば、「この男性のこの行為は、女性的」といった表現を使ったら、今やその表現は差別に思われる可能性もあるようです。(※“この男性”は、トランスジェンダーではありません)
今や、男らしさ、女らしさという表現すら使いにくくなっているというか。
私を含め、世の中の人たちがどこまでが人を傷つけ、どこまでが傷つけないのか、だんだん分からなくなってきているのも事実。 多くの人が分かっていないから、「差別になりそうだから止めよう」みたいなことになってしまうのかもしれません。(誰かに批判されたら困るから)
男らしさ、女らしさを追求することは差別につながってくることも・・・。
それこそ、極端な話、今後は「結婚生活の良さ」を表現された作品があったら、「独身者に対する差別だ」なんて言い出すような世の中になってしまうことも?(※私も独身者ですが、そんなものは差別とは思わないですよ!)
「人を差別をすることは絶対に、良くない」ことを前提にして敢えて言うなら、そもそも万人を傷つけない言葉って結構、難しいような気がします。なぜなら「受け手次第」のところもあるから。
最初に話した通り、「劣等感」を相手がどれだけ抱いているかで変わってくるものだから。 そもそも発言をしなくても、キラキラ輝いている人がいたら、「気にいらない」と思う人だっているでしょうし、「ありがとう」という言葉だって、人によっては気に入らないことだってあるでしょうし。(受け取り方次第で、相手が心からお礼を言ったとしても相手が上手になって言っただけだと思えば、気に入らないと感じるでしょうし)
ドラマのようなフィクションの世界であっても、「犯人が逃げるときはシートベルトが必要」とか、子供がマネするからダメとか、なんだか段々世の中が、何が正しくて何が間違っているのかが分からなくなっているように思えるのは、私だけでしょうか?
とにかくみんな正しい判断もできないまま、非難されないように、責任をとらされないようにビクビクしている、というのか。
それが正当な声ではなく、自分勝手な劣等感からくる“小さき声”であっても。
とにかく、まずは自分が劣等感から変な発言をしないように自分と向き合うことは大切。
それと同時に世の中の自分勝手な発言に対してはきちんとジャッジできる人でありたいものですよね。 そんなことを思うものです。
byコラムニスト・ひかり