■波動が上がった時に気付くこと
ここしばらくは、波動を上げていくことに注力しているんです。
そうすると、今まで平気だったものが苦手になってくることもあるんですよね。
例えば、ドラマや映画でのイジメ、意地悪な行為、それだけでなく、人と競い合うシーンとか、見たくなくなってきてしまったんです。そんなシーンの時は、DVDや録画なら早回し・・・。
なぜイジメるのかが分からない。
なぜ競い合わなくてはいけないのかが分からない・・・。
人をイジメるのって自分にも優しくない行為であることがすごく分かるし(いい気分でやる人なんていないですし)、競い合わなくても、自分らしく好きなペースで楽しめばいいのにって思っちゃうんですよ。
自分がのし上がるために相手を潰すとか、意味が分からない・・・。
お互いにがんばろうでは、ダメなのか。
相手と比べるのではなく、「過去の自分」と比べて、進歩の幅が大きい方が余程すごいことなのではないか、とか。
(人と比べ会う場合は、そもそも生まれつきの部分での差もありますしね)
そんなことを考えていたら、小林正観さんが、この世界を「楽しく生き抜く方法」として、「きくあ」の実践を紹介していたなぁ、なんて思いました。
「き」=“競わない”
「く」=“比べない”
「あ」=“争わない”
私たちは今まで、競うように、比べるように、争うように洗脳されてきたんだなぁなんて思うものです。
これらはすべて、世の中は“幸せになるために必要なもの”が不足していて、自分は足りないからこそ、相手よりもより優れることによって奪い取っていくことが正しいのだという価値観を植え付けられているところもありますしね。
学歴がないと、いい会社に入れない。
そして、いい会社に入れないとお金がもらえない。
そして、お金がもらえないと、貧乏になって幸せになれない。
というような、そんな恐怖感から、人は競い合って誰よりもいい点数をとれるように勉強し、いい大学に入ることを競い合い、就職しても出世のために争い、さらに、自分が幸せかどうか不安だから人と比べあって生きているところもあると思うんです。
そのシステムだと、弱肉強食だから、必ず多くの人が劣等感を抱くようになっている。
それで、人よりも出世することをエサに、命令を聞く人を増やす。ある意味、支配されやすくなるシステムにもなっているものです。
そんなのでは、たとえ出世して、お金持ちになっても幸せにはなれないですよね。
幸せにならないと意味がないのだから、もっと自分らしく生きた方がいいに決まっている。
「負けず嫌い」って、悪いことではないと思っていたけど、そもそも、人に勝つ必要なんて本当にあるのだろうか。
例えば、ある枠に相手が選ばれて、自分が選ばれなかったのだとしても、本当に自己肯定ができているならば、「自分には合わない枠だったんだ。じゃあ、自分が選ばれなくてむしろよかったのかも」で済む話だと思うんですよね。
これにお金が絡むと、もっとお金が欲しいから選ばれたかった、みたいな話にもなってくるわけで。
結局私たちは、「お金の奴隷」になっているところもあるんですよね。
でも、お金ってなに?って話です。
今や、お金のシステム自体がおかしいことも分かってきて(※中央銀行、日銀の仕組みを見ていくとおかしいことに気づく人も)、さらに、最近のニュースを見ていると、不正も色々と出てきて、
「能力があるからお金が得られる」なんてそんな話ではなく、ズルく手に入れている人なんかもいるわけで、お金をたくさん得たからって、その人がすごいわけでもなんでもないことが分かったら、そこまで欲しいものでもなくなってくる、というか。
(もちろん生活のために、ある程度のお金は必要ですが)
豪遊したいわけでもないし、ブランド物をほしいわけでもないし、そんなものを欲しがらなくても、自分が満たされる方法はありますしね。
ただただ自分を、周りの人を愛せばいいんですよね。
みんなの幸せを願い、愛せばいいだけのこと。
自己肯定できるようになると、人に認められたい、みたいな気持ちはなくなってくるし、目立ちたいとも思わない。
(むしろひっそりと幸せに生きていきたい・笑)
ただ、人に喜んではもらいたいから、(それが自分の喜びには変わるから)自分の能力を生かしたいとは思いますが、野心はなくなりますね(苦笑)。
こんなことを考えていると、今までの自分は何だったんだろう?なんて思うものです。
なにかを求めていたときよりも、求めていない今の方が、すごく楽で心が安定しているところがあるんですよね。
緊急事態宣言による外出自粛は、私の心の脱皮にはとても大切な期間だったような気がします。
あなたは、どうですか?
Byコラムニスト・ひかり