■波動を低くする、ある思い
パラレルワールドは、無限大にあると言われます。
つまり、自分の波動に合う並行宇宙に移動するのですが、その世界は、人が想像するだけの数、あるのだと言われています。
だから、波動を低くしていると、自分の周りで争いごとが起こることもあれば、逆に、波動を高くしていると、優しい人しか周りにいない世界になるというわけです。
「私は波動が高いから大丈夫!」なんて思っている人も、実は、“ある思い”によって、波動を低くしてしまうこともあります。
それは、「結果を出して評価されたい欲」です。
私たちは子供のころから、テストでいい点数をとったら親に褒められる、いい大学に行ったら、喜んでもらえる、と頑張ってきてしまったんですよね。
それが大人になると、承認欲求にもつながってしまったり。
(SNSで「いいね」を欲しがる、みたいな)
だから、そんな結果を出して褒められることを望むのではなく、結果を出したとしても、「そんなのできるに決まっているわ!だから、何?」くらいの気持ちでいた方がいいのです。(なんともクールな喜び方ですが・笑)
でも、確かに、人から評価されることに重きを置いてしまったら、相手がどう思うか、で自分の価値を見出してしまうんですよね。
それって、“他人軸”ですよね。
他人のことはコントロールできないから、評価されなくなってしまうと、ますます相手に好かれることばかり探そうとしてしまう。
そうすると、自分らしさを失ってしまったり・・・。
それで言えば、以前、仕事で、ブログのアクセス数を上げるためのSEO講座みたいなのを受けたことがあるのですが、やはりアクセスを上げることを目的にして書くというのは、私は苦手なんですよね。
なぜなら、私にとってブログは「自由な表現の場」だからこそ、「読者さんに伝えたいこと」「これを伝えた方が読者さんのためになること」というのが最優先であり、(=それが私がコラムを書く使命であり、喜びだと思っているから、結果的に自分のためでもあるんです)別に、人気者になりたいから書いているわけではないんですよね。
アクセス数重視になってしまったら、伝えたいことがブレますしね。
例えば、このサイトは女性向けなので、恋愛ネタを書いた方がアクセス数がいいのは分かっているんです。
でも、今、こんな地球変換期のときに、伝えなくてはいけないことはもっとあるのではないか、と思っているんです。
1人でも多くの人に目覚めてもらいたいという気持ちもありますし。
それは、メディアにも言えることで、テレビが視聴率、新聞、雑誌が発行部数、WEBサイトがアクセス数による広告収入ばかりを考えたら、メディアの役割が果たせなくなるんですよ。
世間が興味がなくても、また知りたくない厳しい現実であっても、伝えなくてはいけないこともあるわけで。
そんな視聴率、発行部数、アクセス数ばかりを重視したら、不特定多数の人にウケるためにもレベルを下げて、“みんなが分かるようなもの”ばかり紹介するようになってしまうんです。
さらに、広告のクライアントがいる限り、そういう存在にとって汚点となる記事は番組、記事で紹介できないことも多いものなんです。
だから、ニュース番組であっても、芸能ニュースとか不倫とか、どうでもいいことだけど、人の欲望を刺激して喜ぶような内容がメインになってしまったり・・・。
もちろんそれは今のマスコミの仕組みが、広告ありきになっているから、問題のわけで、さらに、私たちが、ネットニュースなどを読むようになり、記者たちが汗水たらして取材してきた記事を無料で読むのが当然だと思っているから、そんなシステムになってしまうわけで。
でも、私は本当に真実をきちんと取材し、書いてくれるメディアがあったら応援の気持ちも込めて、お金を出してでも読みたいです。
逆にそういうメディアが存在したときには、他社の広告を載せる時は、クライアントと契約するときに、「クライアントだからといって忖度しない」ということを約束してほしいものですしね。
おそらく真実を書こうとして上の人間によって潰されて辛い思いをしている記者って意外と多いと思うんですよね。
それよりも、このシステムが悪いから、システムを変える必要がある、というのか。
◇
結局、私も含め、ではありますが、その物事の背景まで深く見ないことも多いから上っ面な部分で、「そういうもの」だと思ってしまい、背景を想像しないところもあるんですよね。
例えば、ニュースがタダで読める環境とはどうなっているのだろうか?
(誰がお金を出すのか、記事を書く人間はどこに忖度しなくてはいけなくなるのか)というのを考えるのは大切ですよね。
そうしたら、「マスコミなんだから忖度しないできちんと真実を紹介しろ!」と文句を言うだけでは解決しないことくらい分かるものですしね。
身近なことで言えば、自分の目の前に置かれた料理1つでもきちんと想像した方がいいですよね。
例えば、グルメ番組で、ステーキを紹介する際、店員さんが「肉質の柔らかい、生後3年未満の若いメス牛のみを使用」と紹介していたら、大抵、「わぁ、美味しそう!」と思うものですが、もし、調理過程の前のその牛が生まれて、3年間育てられて、嫌がるのを無理やり食肉工場に連れて行き殺して、食肉にして、ステーキサイズにカットして、それをお店で調理しているところまでの工程を全て紹介したら、通常は、軽い気持ちで「美味しそう!」なんて言えなくなるものですしね。
(たとえ、食べるにしても、身を奉げてくれた子牛に深い感謝を抱くでしょうし)
でも、そうやってできたお肉だってことを分かっていない場合は、「現実が見えていない、見ようともしていない、想像力が足りない」ってことなんですよね。
波動を上げることにもつながる「軽やかに生きる」というのは、見なくてはいけないことを見て見ぬふりをして生きることではないと思うんです。
例えば、ニュースがタダというのは、どういうシステムなんだろう?と考えないといけない。
100円ショップにあれだけのクオリティの商品が並ぶというのは、どういうことなんだろうと考えなくてはいけない。
(ある意味、日本だって、発展途上国の人たちを奴隷のように扱っているとも言えます。日本で作るのと同じ給与をあげたら彼らはどれだけ豊かになるのか)
だから、「無知は罪だ」と言われるんですよね。 「知らなかった!」で許されると思っているから。
それは軽やかな生き方ではない。
愛のある生き方でもない。波動が軽い生き方とも違う。
もちろん、自分1人がメディアの仕組みを変えることなんてできないし、100円ショップを変えることもできないし、肉食を止めさせることもできないものです。
でも、気付いていない人に気付いてもらうことくらいはできるでしょうし。気付く人がより多くなれば、世の中が変わる一歩になることだってあるでしょうしね。
波動の高い世界というのは、愛と調和の世界です。
「無知で、お花畑しか見ていない人が行ける」なんてことでもありません。
そういう人は結局、「自分さえよければいい」という、愛と調和から外れた行動をしているから。
自分なりの愛を出していくしかないんですよね。誰に褒められなくても。
愛を出すとはどういうことなのかを、真剣に考えてみることは大切!
今の自分は愛を出せているのか、と。
自分の中の負の部分をどんどん手放して、さらに愛を内側から増やし、たくさん出して、軽やかで魅力ある人になっていきたいものですね。
Byコラムニスト・ひかり