よく「性格は顔に出る」と言われるものです。
でも、私は昔から、人を信じやすく、同僚から裏切られることもあったので、当時、お世話になっていた取引先の方から「性格の悪い人の見分け方」も教えてもらったことがあります。
その人のアドバイスで一番印象的だったのが、「ボーとしている時の相手の顔を見ろ!そのとき、本性が出ているから」ということ。
それから相手を観察していると、人前ではニコニコしているような人でもひとりのときには、意地悪そうな顔をしたり、不満を溜めているような顔をしていたり・・・。
信じる前に、「相手のことをよく観察する」ことって大切なんですよね。
ただ、「性格の悪い人」は、どうしてそんな言動をするのかというと、それしか手段がない“弱き人”であることが多いんですよね。
だから、意味もなく、誰かに意地悪をしてやろう、なんて、“根っからの悪人”はそうそういなくて、その人の心の弱さなど、“未熟さ”から、人に迷惑をかける言動をしてしまうもの。
だから、相手が意地悪で悪人だから、自分は相手を退治してもいい、なんてことは決してなく、自分も相手に意地悪をしたり、仕返しをしたりしたら、自分も同じく「性格の悪い人」であることは自覚した方がいいですよね。
そんなことをしていたら、自分も性格の悪い顔になってきますよ!(苦笑)。
同じ土俵に乗らないに越したことはないし、もしどうしても関わらなくてはいけない相手であるなら、そのときは、心のどこかで「相手は“弱き人”なのだ」と言い聞かせて、思いやりの気持ちを持って、一歩大人の対応をすることも大切だと思います。
そうしたら、相手だって意地悪はしないものだから。 大体、相手は、何かに恐れ、相手を敵だと思うから、攻撃的な言動をしてしまうものですしね。
余談ですが、最近、思うことがあるんです。
もし、自分が“生き神様”のように生きることができたら、逆に自分も幸せになれるのでは?と。
それは、「もし自分が神様だったら、今、目の前にいるこの人になにをしてあげるだろう?」と考えること。
「この人が今望んでいることはこういうことだ」ということが分かれば、それを手伝ってあげることで相手が幸せになり、結果的に自分にも幸せが返ってくることってあると思うんです。(だって、誰もが“自分を幸せにしてくれる人”のことは好きですし)
ただし、単に甘やかせることだけがいいわけではないので、やはり時に、苦言を呈さなくてはいけないこともあると思うんです。(愛情を込めて)
もちろん聞く耳のない人には何を言っても無駄なので、自分自身で学ぶまで見守ることが大切だったり。
また本人が要望をしていないのに手を差し伸べることも、相手のためにならないですしね。
神様の言う「求めよ。さらば与えん」って、そういうことだと思うんです。 神様だっておせっかいはやきたくないし、本来は、相手が乗り越えられるだけの試練しか与えられていないものだから、その試練を通して、相手が自力で乗り越えられるほどの強さを身につけることこそが一番大切だけど、「どうしても困った時は、助けを求めなさい」って、そういうことだと思うんです。
“神様の目線”で世の中を見ると、見えてくることってあるんですよね。不思議と。(とはいえ、実際には神様にはまだまだ程遠い目線しか持てませんが)
神様だって、肉体がないから具体的にできない行動もあるだろうし、そんなときに肉体のある私たちが神様の気持ちを汲んで行動することで、神様を喜ばせることもできるのかもしれません。
「性格の悪い人」に話を戻すと・・・神様の言葉で言えば、「罪を憎んで人を憎まず」も、まさにそういうことなんですよね。
相手は“未熟さ”故の罪に対しては怒ってもいいけど、相手の存在そのものを罰するのではなく、相手が成長し、反省できるように導きなさいということなんですよね。
だいたい人が罰さなくても、当人が本当に成長したときには「後悔」という形で、自分で自分を深く罰するものだから。 それは人から責められるよりも辛いこと。それくらい「自己嫌悪の力」って、強いものだから。
何はともあれ、「生き神様になりましょう!」とまでは薦めているわけではありませんが(苦笑)、少なくとも、「性格の悪い人」を見抜けるようになって、同じ土俵の乗らないで、程よく距離を空けられるようにはなりたいものですね。
byコラムニスト・ひかり