■正しさにこだわっていない?
ふと「正義」について考えていくと、すごく難しい問題だなと思う。
その人の立ち位置によって変わるから。
例えば…
家族を守りたいと思う人は、子供の罪を隠すかもしれない。
自分が悪人になろうが、そういう道を選ぶ人もいる。それがその人にとっては「正義」だったり。
社会的な「正義」を持っている人なら、正直に公表して、子供に罪を償わせるかもしれない。
さらに、仮にその子供が世界中に崇拝され、その子が罪を犯したとなれば、世界の人が嘆き悲しみ、事件が起こるほどの大混乱になるなら、表沙汰にしない、というのもまた「正義」なのかもしれない。
罪、そのものは消えない。
でも、それが公になって、それによって世の中が不幸になるときに、果たしてそれを公表することが「正義になる」と言い切れるのか・・・。
この世界では、真実が明らかになっていないことも多いとよく聞くもの。
でも、知らない方が良いこともあるのかもしれない。
真実を知って、それを変えられない現実に苦しみながら、この命が終わるまで生き続けるのであれば、知らないでいた方が、その人自身の人生は幸せだと言えることもあるのかもしれない。
そうなったとき、自分の勝手な正義感から真実を明らかにすることは単なる「エゴ」になることもある。
すごく難しい問題だなって思う。
とはいえ、私は世の中が大混乱になるような新事実を知っているわけではないですけど(笑)。
◇
ふと思うんですよね。
私は取材をして記事を書く人間であるからこそ、「何のために書くのか」が人によって違うんだなってことをひしひしと感じるんです。
正直言うと、私は「相手の秘密を暴いて書く」ような記事は、頼まれても書かない。
それは私自身の、“書く美学”と反するから。
嘘は書きたくないのは前提ではあるけど、取材した人も、それを読んだ人も、書いた私自身も幸せになるような記事を書きたい。
それが結果的に、人の心を豊かにし、世の中を明るくする記事になると信じているから。
もちろん褒めたくもないような人、店、サービスなどは記事にしないようにもしているし、そういう自分の美学に合う記事を書かせてくれる場所でしか書いていません。
そうでない仕事は断るし。
それは私がフリーランスだから、得られている権利だとも言えます。
(会社員だったら、それでも書かなくてはいけないこともあるでしょうし)
◇
逆に、世の中には、秘密を暴いて書くことに生きがいを感じている人もいる。
それもその人の書く美学なのだから、否定はしない。
そして、単なる芸能系の暴露ネタはさておき、世の中を揺るがす権力者の秘密を暴くことでこの世界を救うことだってあるかもしれない。
それはそれですごく尊い生き方ではあります。
でも、どちらにしても、“書く場所があるのか”“読む人がいるのか”が重要だったりする。
そうでなければ、自己満足になってしまうのだから。
とはいえ、読む人の嫉妬心を満足させるような有名人の秘密を自分勝手に暴いていたら、取材させてくれる芸能人はいなくなるかもしれない。
結局、そう考えていくと、最終的には、みんながwin-winになるように、全てが調和するようにしていくしかないと思うのです
読む人も、取材される人も、取材する人も。
自分が勝手に思う正義ではなく、より多くの人がアリだと思う正義ではないと、世の中は成り立たないことも。
そう思うと、真実であれ、偽りであれ、より多くの人が幸せでいることを目指すことが、この世界での「正義」となるのかも。
◇
私たちは1人では生きていけない。
だからこそ、調和が大切。
そもそも正義も法も国によっても、時代によっても変わってしまう。
絶対的な正しさなんて、この世にはない。
より多くの人が幸せになるために折り合いをつける。
いいか、悪いかは別として、それがこの世界での「正義になる」のかもしれないなぁ、なんて、思うものです。
◇
それは、世の中なんて大きなスケールではなく、恋人間、家族間でも言えることで、自分が正しいと思っても、相手が正しいと思わなければ、そこにあるのは「正義ではない」可能性もあるということ。
「正しさ」よりも「優しさ」の方が大事!
最後は、調和していけるように、折り合いを付けていくしかないのかもしれませんね。
byコラムニスト・ひかり