人が生きにくさを感じるのはどんなときかというと、「自分らしさを失ったとき」なんですよね。
人には、「自分をよく見せたい」という“自己呈示”をすることと、本来の自分をさらけ出したいという“自己開示”の欲求があります。
この自己呈示で見せている姿と自己開示での姿にギャップがある人ほど生きにくいものだと思うのです。
“本当の自分”のまま生きていないですしね。
では、“本当の自分”とは何なのか?
例えば、人前では悪口を一切言わない人が、家では一人で恨み日記を書いていたとして、恨み日記を書いている姿が本当の姿なのか?というと、そんなことはありません。
その人は、恨み日記を書いていることで、バランスをとっているんですよね。 だから、たまに「私は本当は、恨み日記を書くような人間なのに、人前ではいい人でいる!」なんて自分を卑下し、どんどん嫌いになってしまいがちですが、恨み日記を書いている姿自体も、“本当の自分”というわけではないです。
どちらかというと、“本当の自分”と“自己呈示の自分”のギャップを埋めるために楽になるための作業にすぎないから。
だから、そこに嫌悪感を抱く必要もありません。 ただ、最終的に楽に生きるためにはどうしたらいいのか?というと、よく人は「本当の自分をさらけ出せばいい!」なんて楽観的に思いがちですが、未熟なままの自分をさらけ出せば、もっと生きづらくなります(苦笑)。
恨み日記を書かない代わりに、恨み事を口に出すようになったら、どんどん人に嫌われていきますしね・・・。
結局のところ、“本当の自分”を“自己呈示の自分”に近づけていくしかないんです。少しずつ精神を磨いていって。
「それができたら、苦労しないわ!」なんて言いがちですが、何度も言うように、恨み日記を書いている姿自体は“本当の自分”ではないのです。 自分を決めつけてはいけません。
“本当の自分”は、もっとフラットで成長可能な存在なのです。
だったら、嫌な相手に対して恨まない代わりに、どうしたらいいのか?
「知恵を付ける」ことも手段の1つです。
理不尽な状況に対して、どうしたら対応できるのかを理性的に考えること。 ビジネスであれば、それなりのルールがあるので、方法は意外とあるものです。 ビジネスでない場合は、感情論になりやすいので、きちんと「人としての生き方」の指針を持つことができたら、理不尽な相手と同じ土俵に乗らないで、「あぁ、この人は残念な人なんだ」という反応で終わります。(それでも怒りが収まらない時は、「あぁ、この人は“おバカさん”なんだ」と思ってもいいでしょう・・・)
まだ自分の中でその確信がないからこそ、「どうして、こんなことをするの?ひどい?どうして?私がなにか悪いことをした?」と、相手の言動を理不尽な行為だと判断しきれなくて、グルグルと考えてしまうのです。
そして、心が壊れないようにするために恨み日記を書くなんて作業が必要となってしまうことも。
だから、「相手はおかしいんだ」ときっちりと理解することが重要ですし、そういう判断ができる自分になることが大切なんです。
まとめると・・・
「本当の自分でいられない状況が生きていて辛い」
↓
「“本当の自分”と“自己呈示の自分”にギャップがあるから、辛い」
↓
「“本当の自分”を成長させて、“自己呈示の自分”とのギャップをなくす」(知恵をつける、精神を磨く、など)
↓
「自分らしく生きられるようになる」
というわけなんです。
それ以外に方法はない、といっても過言ではありません。 だから、そこから逃げちゃ、ダメなんですよね。楽になれないから!
“本当の自分”を成長させて、どんどん自分らしさを出しても生きやすくなれる人になりたいものですね。
取り繕う人間でいると、疲れちゃいますよ?
byコラムニスト・ひかり