人は「我」があるから、我欲を持つ。
我欲を持つから、人と比べ、人よりも勝っていたいなんて思ったりする。
でも、その我欲があるからこそ、人はその人に力を貸したくなくなる。
つまり、「我欲」をなくすというのは、幸せになるために、すごく重要なことなんですよね。
書籍「愛される人の境界線」(KADOKAWA)にも書きましたが、よく「無になることが人の進化で重要なこと」なんて言われるものですが、単に無欲になったって、ダメなんですよね。
本当の意味で、無になるというのは、「人の幸せが、自分の幸せだと感じる」こと。(=無私になる、我欲をなくすこと)
相手の幸せが自分の幸せになるほど、人と自分との間にある差をなくすこと。
「悟り=差取り」というように。
私利私欲のために動いている人を、人は助けたいと思うのか?というと、多くの人が「No!」ですよね。
逆を言えば、我欲ではなく、人々に幸せを提供してくれる人がいたら、手を貸したくなる。
だからこそ、「与える人は与えられる」ようになっているんですよね。
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人に与えてばかりいたら、損しない?なんて言う人がいます。
もちろん、我欲だらけの人に与えていたら、利用するだけ利用されることもあります。
またそんな我欲だらけの人に与えてしまうのは、相手のためにもならないんですよね。
与える行為のベースにあるのは「愛」であるべき。
「愛する」というのは、相手のことをよく見ることも含まれています。
そもそも相手を見ないで、相手がなにをしたら喜ぶかなんて、分からないですしね。
自分が相手に好かれたいからやるのではなく(※それは我欲)、相手の幸せのためになにか大切なことをやってあげられるような人でありたいもの。
そうなるために邪魔になるのが、「我欲」。
例えば、愛を与えず、求めてばかりいる人を、人は愛したいと思えるのか?
というと、思わないんですよね。
結局、愛する人が愛される。
それは、<本当の愛>を与えらる人に限る。
結局、最初に言った、「人の幸せが自分の幸せ」だと感じるくらいになるのは、大きな愛あってこそ。
結局、人の道の行きつく先は、「愛」なんですね。
心に愛を増やしていきたいものですね。
byコラムニスト・ひかり