■老子の暗号に隠された愛
ある程度、大人になると、ふと思うことがあるんです。
愛の営みって、そんなにエロイものなのだろうか?と。
愛する人と一体になるという行為は、エロとはまた違う「崇高さ」もあるし、気持ちの冷めた相手とすれば、単なる「究極のツボ押し」とそう変わらないのでは?と。
そうは言っても、人は「生理的に受け付けない」相手とはやはりできないもの。
(もちろん、それ以上に「好きな人としかできない」という人は多いでしょうが)
それは、単に「身体の気持ちよさ」だけではない「気(波動)の交換」が、そこには存在するからではないか、とも思うんですよね。
「裸は見せないもの」「特別な人とする行為」という秘密めいているからこそ、エロとつながるわけであって、その常識、価値観が覆された時、その行為は、もっと違った意味のある行為なのでは?と。
先日、「タオコード 性の五次元領域から迸る秘密の力」という面白い本を読みました。
実話らしいのですが、著者の人が、中国雲南省の山岳地帯の秘境にいる少数民族から、老子の書を見せてもらったそうなのですが、そこには「裏の意味」が隠されていて、本当の性の在り方について書かれていたようです。
そして、それを実践して暮らしている村の人たちは、みんな若々しくて、愛に満ちていて、気持ちがつながっている状態になっていて、幸せそうだったそうなんです。
(※その村の人々でフリーセックスをしていた、なんてそんな下世話な話ではないですよ?)
平たく説明をすると、スピリチュアル的な用語ではよく「ワンネス」という言葉で言われるのですが、今の意識よりももっと先に行くと、全ての人々とつながっていて、さらにすべての生物、そして宇宙とも一体になっている感覚が味わえるようになるそうなんです。
そのときの愛に包まれた感じの安心感というのは、この世界でなかなか味わえない至福の状態のようなんです。
そして、実はセックスという行為自体がその宇宙との一体感を疑似体験する行為でもあるようなんです。
ただ性行為は体の一部的な快楽に対し、宇宙との一体感は、全身でそれが体感できるようなんです。
だから、この少数民族の人たちにとっては性行為をエロイものではなく、もっと人と人とが、さらに自然と宇宙とが深く結びつく神聖な行為でもあるんです。
例えば・・・
「性は決して欲望とはならない。宇宙のリズムからはずれることによってのみ、それは欲望に変わる。宇宙の脈動から性をひきはなすもの、それは、自然のリズムに反する社会のあり方だ。」(P102)
「その社会の人々の性のあり方で、その社会がどんな社会なのかがすべてがわかる。」(P104)
「性をみつめることで、人間の神性を引き出すこの村の人々と、性の意思を引き金に欲望を膨らます私たちの社会。同じ性という本質を境に、欲望に向かうのか、崇高さへと向かうのかという、まったく対照的な図式がそこにはある。」(P115)
以前、「理趣経」の本を読んだことがあるのですが、理趣経は秘経と言われていて、仏教で唯一、欲望(性欲も含む)をOKとしている書なんです。
(あのブッダが大切にしていた教えでもあるんです)
これも自分だけが幸せになる欲ではなく、もっと大きな欲望をもちなさい。みんなが幸せになる欲、宇宙全体が幸せになる欲望をもちなさい、という教えなんです。
そして、これもまた「宇宙と一体になる」ことを目指しているものなんですよね。
これを読んでいたからこそ、より今回の本が理解しやすかったところもあるのかもしれません。
やはりどんな教えであっても、最終的に向かうところは、同じなんですよね。
■著者も体験した本当の快楽とは?
この本の著者の千賀さんもこの村の祭りを通して、「一体感」を体感するんです。
みんなで手をつないで輪になっていくと、全ての人が自分自身のように感じられたそうです。
そして、相手もそう感じているのが伝わってきたのだとか。それは一種のエクスタシーだったそうです。
ただ、これは意識の次元が違うから、今、ここにいる私たちがすぐに体験できるか、というと難しいでしょうね。(その村に行ってみたい!・笑)
ただ、その一体感を体験したことで、千賀さんは、いろいろなことが分かってきたようなんです。
「愛に包まれて育つ彼らは、愛に飢えたり、愛を渇望したりすることがない。だから、それを相手に求めたり、不満を抱いたりすることがなく、反対に、誰もが当然のごとく愛を与えようとする。」(P164)
「あの人々は、異性を獲得して自分のものにしようとか、自分の気持ちを何とか告白して通じさせようとか、そういった個人的意思で異性に向かうことをしない」(P165)
「意識と意識がつながっている彼らは、好きという気持ち自体、私たちのそれとは違って、彼らのそれは互いの共感から生じる愛の意識であるために、(中略)文明社会の人間のような片思いに苦しむ姿はほとんど目にしたことはなかった」(P165)
「文明人の物質欲は、愛の代償だ」「愛に満たされない心理が生み出すものは、権力欲でもある」(P167)
「この村の人々には私たちのような権力欲や物質欲などみじんもなかった。当然、彼らの社会には、私たちの社会のような悲劇もない。それは、彼らは、はじめから真の愛に満たされているからだ。欲という欲は、得られない愛の代償として生まれる」(p168)
本当の愛の中で育ち、性行為をもっと崇高なものだと教わっていたら、現代の私たちの在り方は随分、違っていたかもしれませんね。
この本を読んだとき、以前、宇宙人のバシャールの本を読んだときに書かれていた「私たち(パシャール)の世界ではみんなと結婚しているようなものです」といっていたことを思い出したんですよね。
私たちのレベルではまだ、特定の相手とすら、一体感を得られる人は少ないのに、(自分のために相手を求めているだけの人も少なくないですし)もう少し高い次元になると、特定の人どころか、みんなは自分であり、自分はみんなであるというような一体感を得られているんですよね。
孤独感とは無縁でしょうね。
そして、この村では、文明的な進歩は置いといて、精神的にはそのレベルに至っているってことなんでしょうね。
■性エネルギーは悪いものではない!
性エネルギーは、私たちが生まれつき持った根本的なエネルギーなのだから、否定するものではないんですよね。
(そんな罪なエネルギーを神様が人間に与えないですし)
だからって、私たちの社会にいる限りは、まだオープンにしすぎない方がいいと思いますが、せめて性に対して後ろめたさを抱いている人は、その価値観を払拭した方がいいかも。
愛する人と一体になる行為が、宇宙と一体になるその感覚に近いというのは、素敵なことですしね。
できることなら、その宇宙との一体感もいつか味わってみたいものですね。
すごく興味深い本なので、ご興味のある方は、ぜひ読んでみては?
<追伸>
この本はすごくオススメですが、
そうは言っても、私はこの本の著者の方とは一部、意見は違っているところもあります。
著者の方は、少数民族の生活を、理想的だと捉えていますが、私自身は、それも否定はしませんが、「文明的な進歩」も否定はしていないんです。
ただ、「使い方による」と思っています。
ハサミ一つでも、便利な道具になれば、人を傷つける凶器になってしまうように、私たちがその技術を使いこなせるだけの精神性は持ってないと、厳しいと思います。
(それは、今後、AIに関してもそうでしょうね)
また、この本では「論語」に関して、否定的ではありますが、そもそも論語は、自分たちが権力を得るための教えではなく、各自が、この世界での自分の使命を知り、世の中のためになることの喜びを勧めている教えなので、神髄にあるのは「愛」なんです。
(権力者たちにその教えを利用されてしまったところはあるでしょうが)
だから、どんなものにもいいこと、悪いことはあるだけの話で、短絡的に「この少数民族のような生活になりましょう」というのは、違うと思います。
ただ、文明の発展によって私たちが失われているものが、確実にその村にはあるってことなんですよね。
だから、今の状態のままでも私たちがきちんとその“失ったもの”を認識することが大事なんですよね。
byコラムニスト・ひかり