世の中には、色々な思いを持った人が文章を書いている。
その人がいかに内側に愛を持ち、心の器が大きいか?によって、考え方、表現は随分、変わってしまう。
私ももちろん人のことは言えないけど、でも、正直な気持ちを言ってしまえば、時には、「なんでこの人は、こんな人を不幸にするようなことを書いているんだろう?」と残念な気持ちになることもある。
ただ、その表現に救われる人ももちろんいるわけで、そんな影響を受けてしまう人のことを思うと、いたたまれない気持ちにすらなる。
心の狭い人が書いた文章を読んで、心の狭い人は、「自分は間違っていないんだ!」と安心したりもする。
そういう人は、その人の表現と共に、その思いに伴った現実を引き寄せてしまう。
それはとても残念なことではあるけど、その人がそれを学ぶことが必要だから、その表現に共感し、それに伴う現実を得たわけだから、しょうがないこと…いや、それはそれで素晴らしいことだとも思う。それを経験することが、その人にとって大切なことなのだから。
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「こういう考えを持てば幸せになれる」なんて言っても、それを強制する時点で意味合いは変わってきてしまう。
この世界は、誰もが自由意思を得ている。それこそが、この世界の素晴しいところ。
「こう思わないと、幸せになれないから、思いなさい!」なんて言ってしまったら、それこそ、囚われの身ですよね。
幸せになるのも自由。不幸になるのも自由。
スピリチュアル的に言ってしまえば、なにが良くてなにが悪いわけではなく、「自分が経験したいものを選択する」。それに過ぎない。
もちろん、大切な人が悪い方向に進みそうなときは一生懸命止めるけど、それでもその人が人生においてそれを選択し、それに伴うものを経験したいのであれば、やはり止められない。止めないことが、大切だから。
失敗をすることも、大切な経験。人は失敗をしないと学べないこともある。
そんなときは、見守るしかないんですよ。
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選択をしたら、幸せになれるものは何か?
シンプルなことを言ってしまえば、「本当の愛が伴うもの」。
自分のコンプレックスを誤魔化したり、正当化したり、逆に自分を責め続けたりしてしまうのは、自分に愛のない行為だし、人を傷つけてしまったり、利用したりすることは、当たり前だけど、人に愛のない行為。
でも、世の中には、そんな表現が溢れている。
だからこそ、自分は何を選択するのか。
それに尽きるんですよね。
byコラムニスト・ひかり